2016/12/26

クリスマスだからチキン? いえ、違います ~集約化の余地を考える~

たまには、まったく異なる分野の統計データを見てみた。

子供のころ、自分の家には卵を産むためのニワトリがいた。犬や猫をペットとして飼う多くの家と異なり、ニワトリは珍しかった。ペットとしてのニワトリは、想像以上に人懐っこく、ちょっとした自慢だった。

下記のデータは、あくまでも養鶏農家の数値であり、自分の家のようなペットは関係ないのだが、その戸数(青線)は減少の一途である。一方で、ニワトリの数(オレンジ線)はあまり減っていないことが分かる。卵を食べる数はそれほど変わっていない。

採卵鶏の飼養戸数と飼羽数(単位:千羽)の推移(クリックで拡大します)
出所: 農林水産省 平成28年畜産統計を基に作成
※調査が休止された平成17年、22年、27年の値は前後の年の数値の平均値で補間
つまり、1戸あたりのニワトリの数が増えているということだ。集約化が進む要素には、大規模な養鶏農家が増えている、小規模な養鶏農家が減っている、様々なことが考えられる。(統計上、1997年までは300羽以上、1998年以降は1000羽以上の飼養者が対象となっているため、考察には若干注意が必要)

集約化の背景には小規模農家の経営的な悪化などがあるのかもしれない。卵は物価の優等生などと言われているが、経営的な面は小売価格だけでは判断できない。おそらく飼料代や人件費などのコスト面は集約化のメリットがあるに違いない。

そして、集約化が進む大きな理由に『卵は運べる』ということが挙げられる。採ったその場で消費する必要はなく、遠くまで運ぶことができる。卵を大量に消費している東京の都心に養鶏場を作る必要はない。当たり前の話だ。

医療で考えるならば、『運べる』医療は集約化の進む余地が大きい。概念上の『運べる』医療とは、患者が自ら移動できる医療、すなわち、がんなどの医療である。実際、東京の都心のがん専門病院には、新幹線に乗って遠方から来る患者が少なくないという。集約化の余地がある中で、その領域に力を入れるには、相当な「抗う」力が必要である。

余談だが、クリスマスでチキン、ニワトリを思い出したわけではない。この週末、実家のペットとして、ニワトリのあとを継いだ犬が亡くなったためだ。